さぁほら、逃げて逃げて逃げて
022:逃がしたものはあなたへの情熱か、劣情か
曲がり角が遠い。重く引きずるように脚を動かして葛は住処を目指した。あらゆる範囲に及んだ暴力の痕跡は消しきれるものではない。他人のことさえも親身になる厄介な性質の同居人をどうやり過ごすかが難題だ。上着、シャツ、ズボン、靴、と身形を点検してそれから裏口から入り込む。店をあけているので表玄関から入っては厄介なだけだ。もっともこの時刻であれば閉館しているだろうが同居人の葵と顔を合わせたくなかった思惑が強く働いた。どれほど歩いてきたのかさえも判らず葛は軋む取っ手を握りしめて扉を開けた。案の定葵は店の方にいるらしくいきなり声をかかけられることはなかった。葛は一日空けていたから仕事の残務処理も葵が一人でやることになる。葵を忙しくさせその場から離れられなくさせてくれるそれに葛は心から感謝した。階段が遠い。葛は深く息を吸うと背筋をしゃんと伸ばした。部屋につくまででいい。部屋について扉を閉めてそうしたら。かつ、と靴音がする。階段を昇ればきしきしきし、と踏みしめる音が鳴る。足早な立ち去ろうとする葛を明朗な声が引きとめた。
「葛じゃないか、いつ帰ってたんだ? おかえり」
上着ごとシャツの袖をまくって肘まであらわにしている葵が付けペンを片手に顔をのぞかせている。事務仕事でもしていたらしい。得手不得手として事務仕事は葛が担うが、葵も出来ぬわけではない。本業の常として片割れが家を空けるのが多い写真館経営であるから出来ない仕事があっては困る。
「仕事をしていろ」
より冷淡でつっけんどんに聞こえることを願いながら葛は背を向けた。葛の物言いは平素から冷淡で紋切調だ。ぴく、と葵の眉が跳ねる。凛として頑固な気質そのままに太さのある眉だが形がよい。双眸も明瞭に大きく、睫毛は一筋筆で刷いたようにぴんと伸びている。やんちゃな身なりの葵が仕出かすこともやんちゃが多く、時折本業の組織から後始末や懲罰を喰らっている。その葵の肉桂色の双眸が眇められた。朗らかだった表情がだんだんと渋くなっていく。眉をひそめて目を眇める。不味いな、と思った時には手遅れだ。葛の暴力の痕跡は思考まで鈍らせる。
「左足首。左足。それとさっきから握りしめてる両手、開いて見せろよ」
従わない。葛は背筋を伸ばしたまま、この悶着が早々に決着してほしいと思うようになってきた。一度引っ込んだ葵が階段を上って来る。ペンは放り出してきたのか空手だ。葵の足が最初の段を踏んだ、刹那。葛は全速力で階段を駆け上がった、葵も追ってくる。砕かれている左足首が痛い。骨へ響くほど蹴りつけられた左脛の痛みもしびれもまだ引いていない。扉が目の前に迫る。取っ手を取るものもどかしく扉を開けて閉める、そこで思い切り襟首を掴まれて引っ張られた。釦がはじけ飛んでいるシャツであるから首は絞まらないが行動には弛みが生まれた。そこのつけ込まれて葵までもが葛の私室へ飛び込んだ。その勢いのまま葛は寝台の上へ押し倒される。両手は握りしめたままだ。
「ほら、見せてくれないならいいぜ、オレが勝手にみるから。裸に剥いて事に及んでやる。どこをどんなふうにいたぶられたか暴いてやるぜ」
葵の手が葛のタイを解いた。上着を脱がせただけで葵の顔がしかめられる。常に白く洗濯され糊の効いているシャツは靴跡と吐瀉物と血液と体液に塗れていた。釦もいくつかはじけ飛んで葛の白い胸部や腹部が覗いた。軽く引っ張るだけて、野菜の皮を剥くようにするりとシャツは葛の体を隠さずに別離した。
「ずいぶんな扱いじゃないか、どういうことだよ」
上体の有様を見れば下肢など考えるべくもない。葛も葵も言及はしなかったが互いに想像はついている。
「手をあけろよ」
ぎりり、と葵が食いしばる歯の音がした。葛は淡々と隠し通していた手をあけた。手の平の至る所に丸い火傷がある。つんと薫る香草からそれが高価な葉巻であろうことも知れる。独特の香りを手のうちに収めていたのが広がって空気に融けていく。煙草と肉の焼けた臭いと。葛の顔に傷がないのは単純な悶着や厄介を避けるだけの考えが相手にあることを示す。目に見える位置を傷つけてそこからことがほころぶようにばれるのを防ぐ意味合いだ。
「心当たりは」
葛の答えは沈黙だ。もともと寡黙な性質であるから言葉を発さないことに対する負荷はあまり感じない。
「赦せるわけないだろこんなの。あの狸親仁は知ってるのか? 私的なことならなおさら赦せない。オレが――」
「仕返しでも、するか」
葛の漆黒が冷徹に葵を見つめた。
葵の朗らかな性質は顔容やなりにも表れていて、行動も見たままだ。赦せないことには報復するだけの好悪や愛憎の情を持ち、それを明らかにすることを躊躇しない。本業の適正から見れば末端にはちょうど良いが幹部におこうとは思わぬだろう。そう評する葛自身も、自身は末端でよいと思っている。言われたことしか出来ない。探れと言われれば探り、黙っていろと言われれば暴力を享受してでも黙っている。それが己であると葛は評する。
「仕返しなどするな。お前も奴らと同じになる」
わざわざ自らを下賤に貶めるなと葛は葵を押しのけようとする。火傷がびりびりと痛んだ。思わず眉が寄る。相手が無防備にさらしていた手に筆記具を突き刺したのがよくなかったか。ぶづんと皮を突っ切る感触と肉を押す手応えがあった。その後は簡単だ。両手両足をくくられてありとあらゆる暴力の餌食になっただけだ。脱出失敗。そのつけが回っただけだ。
「…――言え。どんなやつに何をされたか、全部。全部言え」
「人の話を聞いていないのかッ」
「言えよ! どこだっ場所は?! 人数と人相と、全部全部全部! 絶対に赦せない赦すもんか」
「何を熱くなっている! 冷静に考えろ! だいたいこれは俺の任務だ、貴様には関係ない!」
葵の右腕が振りあげらえた。しなう柔軟性を見せてパァンと葛の頬を打ち据えた。
「怪我人じゃなかったら拳で殴ってるぜ」
「下種が」
口汚くののしる葛を葵の双眸は凶悪に睥睨した。葛も負けずに睨みかえす。葵は葛の上に覆いかぶさったままどこうともしない。葛は体勢的な不利を感じながらもそれを見せるような失態は犯さない。
離れるべき時かもしれない。葛は不意に思った。幼馴染が急に変わってしまっていなくなってしまったように。葛は葵の世界から身を退くべき時なのかもしれない。本業で組まされる接触以外は極力避けるべきであるという結論に葛は達した。これ以上葵の綺麗な世界に入り込んではならない。軍属として抑えつけらえることや立場の優劣による理不尽には打たれ強い心算だ。だからその鬱憤を晴らしたり、ましてや誰かにそれを代行してもらうなどとは思わない。別離の時が、きた。葵の中で葛のことが己と等しくなっている。葛は誰かと同化するつもりはない。執拗な輩を問答無用に片付けてきた経験がある。それを行使するのになぜか躊躇する。葵も同じだ。葛が望まぬことをする。諍いも起こす。だが。任務は共にこなすことも多い。ひとつ屋根の下で暮らしてゆかねばならない。
懊悩だ。葵との別居は叶わない。そもそも二人の出会いでさえ上層部の都合によるものであり、気が合わぬからといっておいそれと別離することも叶わない。だが、と思う。葵と葛は深くかかわり合いすぎた。葵がこんな激情をほとばしらせるのを見るのは初めてだ。葛の方が静かな怒りを燃やし、それを笑って抑えてきたのが葵である。その葵の爆発的な激情の発露は明らかな変化だった。
「所詮、界隈で雇われた連中だろう。情報は持っていないに等しい。かまをかけたが空振りだったしな」
急速な発展を遂げるこの大陸に限らず路地裏や界隈は危険に満ちている。自己責任のそれらは、蔦のように野放図に領域を主張し、次の日にも同じであるとは限らない。契約を終えた広告灯はだらだらと点滅を繰り返して紅や青や白の灯りを汚水の水たまりに写した。そんな世界にホントウをおいて葛たちは生きている。綺麗で客層もしっかりした写真館の裏で葵や葛は暴力と知略と裏切りと粛清の中で生きている。
「あおい、お前はもう俺に、構うな」
刹那、睥睨していた葵の双眸が見開かれて潤んだ。眇めた目淵からぽたりと雫が堕ちる。怒りに燃えていた表情は今、悲しみに泣いている。
「馬鹿みたいだって思うけど、でも。オレは葛をそんなふうにした連中を赦すことなんてできない」
葵が侵蝕してくる。葛の壁を崩して葵の情熱が入り込んでくる。葵はこんなふうに己を気遣ってくれてしかも、負った傷の痛みさえ分かち合おうとしてくれている。だが、だからこそ。葛は葵に甘えてはならない。優しい甘い飴は一度口に含んだら忘れられないものだ。葵はそんな男だ。朗らかで人懐っこく優しく。葛なんかが拘束していい男ではなかったのだと葛は心中で繰り返す。背中に食らった殴打の跡が痛む。それさえも顔に出さず葛は葵を押しのけようとする。葵はそれを振り払う。押しのけようとするのとそれを阻むのとで応酬が続いた。
「葛はオレが嫌いになったの」
「葵、俺達は情で結ばれた関係ではないはずだ」
爆弾を、落とした。葵の指先が慄然と震えて唇が戦慄く。肉桂色の双眸が色を失くして収斂する虹彩まで見えるようだ。葵の皮膚から顔から瞳から、色が抜けていく。
「オレが、嫌い?」
戦慄く指先。覆いかぶさっていた体が徐々に起き上がる。膝立ちのままで茫洋と葵は双眸を潤ませて問うた。
「かずらはおれがきらいになったの?」
好きだ。そう言えたらどんなにか良かろう。だが葛はここで葵を遠ざける機会を得ている。活用しなければならない。
「…――そ…」
そうだ、の一言が出ない。
逃げてゆく。情熱も劣情も葵に関する感情の何もかもが葛の中から逃げていく。だがそれでいいと葛は止めも抗いもしない。葵に厭うてもらうには葛のなかの好意を消さねばならない。だが二人は一つ屋根で暮らすほかに選択肢はない。だから。
「今までどおりには寝台で閨の相手はする」
「ありがとう」
泣きながら葵は礼を言った。パタパタと熱い滴がいくつも葛の頬へ垂れては伝う。葵の肉桂色の短髪をかき乱すように指を入れて抱き寄せ抱擁した。背が軋む。関節の節々や筋肉の断絶が痛い。それでも。だから。こんなことに葵を巻き込んではならないのだ。
「あおい」
葛の言葉は甘く耳朶をくすぐる。くすぐったそうな葵に葛は刃を剥いた。
「もっと良い相手が見つかる、気にするな」
バッと体を引き剥がした葵が葛をみる。葛はどこか能面じみた作り微笑のままで小首さえ傾げて見せた。葛の表情と内情は驚くほど連動しない。葛としては葵を手放すなど考えられない。だがこれからを考えた時に葵にまで被害がいく可能性があり、それを葛は無視できなかった。
「あおい、みなかったことにしてほしい」
懇願だった。葵は戦慄した。気高く妥協も赦さなかった男の懇願だった。葵が黙るのを葛は計算ずくで眺めている。葵は面と向かって頼むと断らぬ性質だ。ましてこんな慎重を要する事柄であればなお葵の思慮は深まっていく。
「葵、俺は、お前に俺など忘れてほしい」
そうすれば葛は遠慮なく葵への慕情を消せる。いけないと思うたびに情が募った。熱情が奔る。慕情がわく。葛に出来ることは相手に嫌われ蔑まれて、その結果としての忘却しかなかった。
葵はそっと打った葛の頬に手を添えた。目を潤ませたままでにっこりと笑う。
「ごめん、痛かったろう。怪我人殴るなんてオレ、最低だな」
葵はその後を真摯につなげた。
「お前がお前の価値を低く見てる所為でオレに忘れろっていうならさ、お前殴ったオレも最低野郎だよ。だからさ、最低野郎同士でやり直せないかな?」
葛は目を背けた。合わせるわけにはいかない。合わせた途端に迎合してしまうのが判る。だから。
沈黙の返答にそれでも葵は覆いかぶさったままだ。
「ごめん、しばらくこのまま…せめてお前の姿を灼きつけておきたいんだ」
葛は深く息を擦って目蓋を閉じた。
逃がさなければならない。
葵への慕情も、劣情も、熱情も。
本業において確実に別離されていなければならない。上層部からの命で組まされる以外には。
葵のように素直に涙出来たら、俺も少しは変わっていたのだろうか?
《了》